井本 礼子 写真展「記憶の琴線〜想起する幻の光〜」 2010年4月1日(木)〜30日(金) 作家略歴 オリジナルプリント 写真集 |
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Gelatin silver prints, 11x14inches, edition of 6, 7 or 8, with Reiko Imoto's signature and edition notations | |||
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「記憶」とは、実際の体験が元となっているのか、どこかで見聞きした話や、はたまた夢での“経験”までもが元となっているのか、もう判断がつかないことが度々 ある。どちらにせよ、記憶を辿れば、その背景にはいつも光が存在する。記憶の中の光は、透明で明るく、金色に眩しく、時には、うすぼんやりと曖昧に輝く。 たとえ闇の中の記憶であっても、その暗がりの最後には、確かに光があることが思い出される。 幼い頃のある日、姉が言った。「昼間、誰か知らない女の人が庭にいて、その人がしゃがんでいる背中が窓から見えた・・・」と。私は不思議に思った。だが何故だか不気味な感じはしなかった。それは昼間の光を想像したからだろうか?姉はそれから数年間は「あの人、誰だったんだ ろう・・・」と、ふいに思い出してはそう呟いていたように記憶する。大人になってから、その「庭の見知らぬ背中」のことを尋ねてみると、姉はもうすっかり 忘れてしまったようだった。記憶はいつも定かではない。もしや、全ては、私自身が幼い日の夜に見た夢物語だったのだろう・・・? この、なんでもない記憶 の真相を知る術は、もはやどこにも残されてはいない。ぼんやりとした「光」と、その中に浮かぶ「誰かの背中」のイメージだけが、“記憶”として自らの脳裏 に投影されるのみである。 「宮 沢賢治」の文学世界が好きだ。彼の物語はいつも光を想起させる。ここではないどこかの、なんともいえない不思議な世界であるのに、いわゆる「ミステリー」 のような暗闇の質感ではなく、そこにはいつも陽の光が射すような温度がある。(夜の物語にさえも、月や星の光が眩しく感じられる。)何故だろう?賢治の本 を読む度に、光の感覚を吸収する。 い つもの散歩道、あのカフェの角を曲がると、重い雲の切れ目から圧倒的な西陽が溢れ出し、この足元を真っ直ぐに照らし出した。空を向くと頬が燃えるようだ。 眩しさに目をつむると、思ったとおりに真っ赤に見えた。わけもなく幸せな気分が全身に満たされる。その光は、幼児の時に窓から庭を覗いて見た光だ。その遥 かな光は、古いアルバムの写真を通して見た光なのか、実際の遠い昔に経験した光なのか、私にはもう分らない。たぶん、どちらでもいい。確かなことは、記憶 にはいつも光が在るということだ・・・。 光 の佇まいは様々だ。どんなに曖昧な光でさえも見落とさぬよう、素早くカメラで拾い集め、「写真」という形あるものに焼き付けることは、時空を超えて、過去 に見た光を再現しようとする試みであるともいえよう。だが、その写真を前にする時、撮影時の記憶の光は、もうそこには見られない。代わりに、記憶とはどこ かが少し違った、新しい光が写し出されている。そして、その写真の光が徐々に新たな「光の記憶」となっていく。いつか見た懐かしい光は、日常の期待もしな い瞬間に、不意に現れ私を驚かせるのだが、ファインダーを通して確かに見えた同じ光がそのまま写真に納まることは決してないようだ。しかし、形を変えなが らも、光はずっと続いている。いまもここに在り、そしてこれからもずっと続いていく。この“当たり前の永遠”を、無意識と意識の間で体感しつつシャッター を切る。そして光の再現を写真に期待する。幻の光を何度も夢見る。またシャッターを切る・・・。 光の在り処に気付くとき その光は人の記憶に降り注ぐ 夢と夢の合間を 日々忙しく生きる私たちそれぞれの記憶の琴線に触れるまで 『記憶の琴線 - 想起する幻の光』 展にようこそ。 井本礼子 |
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