大災害の映画。大火災とか、大地震とか、宇宙人の到来とかの大きな災厄をテーマにした映画は、たいてい冒頭部分で主人公のごく普通の日常生活を描くことから始まる。例えば、朝なかなか起きない子どもをむりやり起こし、朝食もとらずに学校へ走って出る子どもを見て頭を振る母親、そんなことにはわれ関せずと新聞に顔をうずめている父親。それは、どこでも見られる日常の風景だ。
このようなありきたりのシーンは、他の映画ならわざわざ見せることはないのだが、大災害の映画の場合は特別の意味をもってくる。観客は映画館に入るとき、これは災害映画だと知っているから、一見つまらない日常の風景の語りが、実は大災害の予兆であり、これから登場人物にとんでもない非日常的なことが起こることを予告していることを察知する。
ここで肝心なのは、映画の中の登場人物はそのことを知らず、観客だけがこれから彼らが大きな災害に巻き込まれるということを予知しているということだ。観客は言ってみれば、自分の運命を知らず、平然と平和な日常生活をおくっている人たちを雲の上から見ている予言者達のようだとも言える。
実は私たち誰もが、この映画の中の登場人物のように生きている。私たちは、いつかは災害や事件に出くわすことがあるかもしれないとは感じつつ、それが何かもいつかも分からずに一見、平穏に生活を続けている。しかし災害は、やって来る。その最も深刻な災害は、誰もがいつかは見舞われる死という災害だ。
われわれは、ダムの水は、溢れ出ようとするだけでなく、ダムそのものの崩壊につながることも知らず、その下でノホホンと生活をしている人間のようでもある。そのダムは、私たちのはるか頭上にあり、私たちは見ることができないが、その向こう側には、常に水が流れ込んでいて、その早さも、いまどのくらいたまっているかも、見えはしない。ただ漠然といつかは、その水は限界に達し、ダムが耐えきれなくなるほどの水量となって、やがて崩れ落ちるのではと感じている。
渡邉博史 |