「退く」

岩本 悟
Satoru IWAMOTO

2012年1月発行
2,800円+税
上製本/写真モノクロ46点
サイズ 238x207x12mm

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ある冬の寒い日、僕は静岡の山間にいた。着いたのは夜10時。月の出から朝日が昇まで、夜を徹して行われる50番もの能演日はすでに始まっていて、見物客もまばらにいた。たんたんと演目が続くなか、ふとストロボを持ってきていないことに気付く。やや疲れていることもあって、写真は撮らずに舞台から少し離れた場所に腰掛け、鳴り響く太鼓と笛の音だけをただ聴いていた。しばらくすると、寒さで手足が悴んできて、座っていられなくなった。舞台のそばに松明が焚かれていて、見物客はみなそこに集まっている。僕も体を暖めるためにできるだけ近づく。すると今度は、顔が焼けるように熱くなり、それ以上近づけなくなる。熱さと寒さの間に自分の体があって、身動きがとれなくなった。同じような感覚は、神事や民族行事などを他の場所で撮影する場合にもあって、あの夜、燃え盛る松明と舞台のすぐそばまで一歩を踏み出せなかったように、いつだって被写体との距離は一定で容易に近づくことはできない。
ただ、この静岡での撮影が僕の中で特別な旅となったことは間違いない。これまでの撮影では感じることのできなかったものがそこには確かにあった。姿はない。姿はないが、それはすぐそばにあり、他者と自分とが一つになろうとする空間だった。

(著者あとがきより抜粋)

   

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