−展示案内−
ミャンマーを通して様々な人たちと出会うなかで「日本とミャンマーのつながり」を意識するようになった。戦争は不幸な出来事だったが両国の関係の始まりであり、その先人たちのストーリーに触れてみたいと思い私はかつて「白骨街道」と呼ばれた「TedimRoad/ティディム街道」を訪れた。
ティディム街道はミャンマー中央部のザガイン管区カレーミョウからチン州を抜けてインドのインパールへ続く幹線道路。標高1000m から2000m を超えるアラカン山系の山々が幾重にも連なる難所を抜けて行く。チン州ははキリスト教徒が多いと聞いていたが、ゲストハウスの屋上からティディムの町を見渡すと教会がいくつもあり夕方になると賛美歌が聞こえてきた。私が今まで見てきたミャンマーと大きく異なる世界に改めて多様な国家であることを感じた。
1944 年3 月、敵情と補給を無視した「インパール作戦」が発動されたが英米印連合軍に大敗し雨季真っ只中の7 月から敗走が始まりその撤退路の一つがテディム街道だった。武器や食べ物も無く敗走を重ね戦死より病死や餓死の方が多い史上最悪と呼ばれる作戦となった。
2019 年4 月、インパール作戦を生き帰国された方から「現地の人がイギリス軍から匿い看病し食事の世話をしてくれなければとても生きて帰れなかった、ビルマは私の故郷だ」と聞き私は撤退を強いられた雨季に訪れようと考えた。
2019 年8 月、ティディム街道は連日豪雨が降り続き気温も低く崖崩れや落石も数えきれなほどあった。私は4WD 車の移動だったが、当時日本兵は敵に見つからないように昼は水浸しの個人壕に潜み、夜になると道なき山中を歩いて逃げたことは想像を絶していた。
街道沿いに点在する村々は高台から斜面に向かって広がっている。この高台をめぐり激しい戦闘が繰り返されたのだろう。豪雨で流される土壌から今でも遺留品、遺骨が発見されている。
日本軍が駐留していた村で、連合軍の空襲に巻き込まれ犠牲になった村人が多く居た話を聞いた。そのような状況にも関わらず敗走する日本兵を助けた村の人から自分の耳で直接話を聞けたことは貴重な経験となった。
戦後75 年を迎えた2020 年、当時を直接語れる人はもう僅かだ。日本とミャンマーの関係はこの先も様々な分野で続き発展して行くことだろうが、先人たちの多くの犠牲があったこと、現地の人たちに犠牲を強いたことを忘れてはならない。
亀山 仁
|