作家によるステートメント
私は、中年遅くになってから再度写真の道を志したが、その時漠然とイメージしていたのは、都会の風景や、異文化の景色など、心象風景の写真であり、肖像写真つまり人間の顔の写真は範疇に入っていなかった。(勿論、アウグスト・サンダーやダイアン・アーバスの仕事には、強く惹かれていたが。)それがちょっとしたきっかけで、アフリカ・ケニアで現地の人たちの顔の写真を撮ったことがあり、そのプリントを作る作業をしている内に、肖像写真は面白いと思うようになった。それからは、機会あるごとに色々な場所で肖像写真を撮るようになった。
誰かに頼まれて写真を撮っているのではないから、当然、自分が良いと思った顔の写真しか作らない。つまり自分は写真を撮るときに、もしくはセレクションをしているときに、被写体(顔)を選ぶ作業をしている。しかし、その選ぶ要素が何であるかは実は自分でもはっきりしていない。どの顔が気に入って、どの顔が気に入らないと決めているのだろう、その基準は何なのだろうか、考えてみる。そして何故、顔の写真を撮り続けているのだろうか。
ずいぶん古い話になるが、昔「プレデター」という映画があった。その中でアーノルド・シュワルツェネッガーが演じる主人公ダッチは、同僚の軍人を次から次と殺す得体の知れない異星人と戦うが、ついにプレデターにつかまり、首を持ち上げられて宙ぶらりんにされてしまう。その絶体絶命のシーンで、プレデターはダッチの顔をしばらくじっと見る。しかし、何故かプレデターは興味(よって殺意)を失ってしまいその場を去り、ダッチは助かる。プレデターは人間の頭蓋骨を集めてトロフィーにするために殺人を繰り返していたのだ。ダッチの頭蓋骨の形が気に入らなかった、だから殺意も失った。つまりあの醜い異星人には、なんでも良いというわけではなく、それなりの趣味、好き嫌いがあって、ちゃんとした美意識をもったコレクターだったのだ。
絵画は一点で作品として完結されているものが殆どだと思う。それに比べて、写真家の場合は、同じテーマで何枚ものイメージを作り、その複数のイメージをシリーズという一つのまとまった集合作品として完結し、それを写真展や写真集として発表することが多い。そこでは一枚一枚の写真の重みもさることながら、集合体としての全体の重さも大事だ。だから写真家は、昆虫採集に夢中な子供のように、常にしつこいコレクターであり続けるべきだと最近思う。
渡邉博史 |