「TOKYO B-side,around1980」
シングル盤のB面に併録されたきり埋もれていた楽曲をふと耳にしたときのように、よるべない思いが静かに焦点を結び、心を乱す。約30年という時間の位 置エネルギーをたくわえた1980年ころの東京の姿は、文脈も方向性も失った街の拡散したきらめきをそのままに定着している。実況中継レポートの興奮は電 子メディアにでも任せておくことにしよう。写真はいったん忘れられ、切り離された過去に向け、後ろ向きの想像力を発動させる。
かつて、60年代の東京は熱気に包まれていた。政治運動とカウンターカルチャーの気運が渦巻くなか、日本は高度経済成長の階段を遮二無二駆け上り、新旧 の文化が激しい不協和音を響かせながらも、都市の景観は目まぐるしい変化を遂げ、東京の街はダイナミックに躍動していた。そんな時代の東京で、1967年 に寺山修司によって旗揚げされた前衛演劇集団「演劇実験室・天井桟敷」の専属カメラマンとして須田一政はそのキャリアをスタートさせる。
70年代に入ると、時代の季節風はその風向きを変える。1972年に発表された「成長の限界」報告は、世界的な公害問題、人口爆発、軍事的破壊力の脅威 など人類の危機に対して警告を発し、70年代の基調低音となる。1973年の第一次オイルショックを受けて頭打ちになった日本経済。混乱とテロリズムの中 に方向性を見失った政治運動。
1971年にフリーの写真家として独立した須田は、「カメラ毎日」誌を中心に次々と作品を発表して注目を集め、同誌に発表した作品を集成した処女写真集 『風姿花伝』を1978年に刊行する。この時期の須田の作品に二人三脚のように寄り添っていたのが写真編集者の山岸章二であった。この個性的な編集者と写 真家との間主観性を帯びた対話の中から、記録性と詩情とが渾然とした数々の戦後日本写真の名作が誕生したのであった。しかし山岸は1978年にこの世を去 る。
1980年前後という時代。そこそこの経済的繁栄を享受した日本には、画一化と反復の雲が覆いかぶさり、行き場のない思いは鬱々と枝葉を繁らせていた。 際限のない後付け部品に埋め尽くされたつぎはぎだらけの街。祭りの後のわびしさに包まれ、次なる祭りの気配もうかがえない。それは、1985年のプラザ合 意に端を発するバブル経済の狂乱の空騒ぎにまだ呑み込まれる前の東京の街である。
2010年12月
写真評論家
林 誠治
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